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「悪の凡庸さ」ハンナ・アーレント

今回もティーンの子供に伝えたい「人間とは?」という永遠の問いかけです。

ミルグラム実験が行われる動機ともなったアイヒマン裁判。その裁判と死刑執行までを報告したドイツ系ユダヤ人の政治哲学者、思想家、ハンナ・アーレント Hannah Arendt (1906-1975) (代表作は『全体主義の起源』The Origins of Totalitarianism (1951))の見解によって「人間の持つ残虐性に特別な資質はあるのか?ないのか?」という疑問が社会心理学会に投げかけられたのです。 

『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告 』
Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil (1963)

ミルグラム実験 - Wikipediaより抜粋

東欧地域の数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンは、ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていた。彼を追跡するイスラエル諜報機関が、クレメントは大物戦犯のアイヒマンであると判断した直接の証拠は、クレメントが妻との結婚記念日に、彼女に贈る花束を花屋で購入したことであった。その日付は、アイヒマンの結婚記念日と一致した。またイスラエルにおけるアイヒマン裁判の過程で描き出されたアイヒマンの人間像は人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む、一介の平凡で小心な公務員の姿だった。

このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか。それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起された。この実験は、アイヒマン裁判(1961年)の翌年に、上記の疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言う。

私は↑の本は読んでいないのですが、映画は観ました。

youtu.be

「本当の悪は、平凡な人間が行う悪です。」
「これを『悪の凡庸さ』と名付けました。」

*10年前ですが映画を観た後に記したものがあったのでここに転載します。

アーレントが裁判レポートの中で指摘した二つの見解によって、彼女はイスラエルやユダヤ人社会から激しい嵐のような非難と攻撃にあいました。それまで親しかったユダヤ人の友人を殆ど失いました。それでも彼女は信念を曲げる事はありませんでした。世界に衝撃を与えたその見解とは以下の様なものでした。

アイヒマンは、単に上の命令に従っただけの凡庸な官僚で、悪の無思想性、悪の陳腐さを持った人間でしかなく、反ユダヤ主義者でもなかった。

ユダヤ人指導者が、アイヒマンの仕事に関与してた。少数(数千人)のユダヤ人を救うためにナチに協力し、それが450万人~600万人ともいわれるユダヤ人大虐殺につながった。

アーレントは、ユダヤ人であり、自らも抑留経験のある被害者という立場にありながらも冷静に、民族、同胞という狭い観念に縛られた狭義の思想ではなく、人間という広義の哲学的思想によって考察していったのです。そして不屈の精神でどんなバッシングにも負ける事なく信念を貫いたのです。

私は「シオニズムで権力を握った人々」と「被害者である一般ユダヤ人」を分けて考えなければいけないと感じています。それを一括りにすることが世界中でユダヤ人に対する歴史観を含む全ての理解を複雑にしていると思っています。

映画の最後では、アーレントが学生たちへの講義の場で、世間への反論を展開します。感動的です。以下映画の書き起こしです。

彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許す選択肢もない。彼は検察に反論しました。・・・“自発的に行ったことは何もない” “善悪を問わず、自分の意志は介在しない” “命令に従っただけだ" と。

こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は“悪の凡庸さ”と名付けました。

生徒A: 迫害されたのはユダヤ人ですが、アイヒマンの行為は“人類への犯罪”だと?

ユダヤ人が人間だからです。ナチは彼らを否定しました。つまり彼らへの犯罪は人類への犯罪なのです。

私はユダヤ人です。ご存知ね。私は攻撃されました。ナチの擁護者で同胞を軽蔑してるってね。

何の論拠もありません。これは誹謗中傷です。アイヒマンの擁護などしていません。私は彼の平凡さと残虐行為を結びつけて考えましたが、理解を試みるのと許しは別です。この裁判について文章を書く者には、理解する責任があるのです!

・・・

人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がない程大規模な悪事をね。

私はこの問題を哲学的に考えました。"思考の嵐"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで、人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで ー 破滅に至らぬよう。

ありがとう。

人間であるということは、思考する事。
そして善悪、美醜を見分ける能力を持つ事。

強く胸に刻みました。

NHKのウェブサイトに素晴らしい解説文を見つけました!

視点・論点 「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」
NHK 解説委員室 解説アーカイブスより(*2024年現:このアーカイブはもうないようです。)
フェリス女学院大学教授 矢野久美子

 今から50年ほど前の1960年代前半、ナチスの犯罪をめぐる裁判レポートが、大きな論争を引き起しました。これからお話しするのは、その裁判レポートの著者が何を語ろうとしたのか、ということについてです。

著者の名前はハンナ・アーレント。昨年、映画でも話題になったその人です。
1906年にドイツに生まれたユダヤ人女性で、政治哲学者です。彼女は、ヒトラーの反ユダヤ主義政策によって、ドイツから脱出せざるをえなくなり、1933年にパリに亡命しました。しかし、第二次世界大戦によってフランスで生きることも危うくなり、アメリカ合衆国へと避難し、そこで1945年の終戦を迎えます。

 ナチスの全体主義政権下では、ユダヤ人をはじめとする大量の人間が、強制収容所やガス室をともなう絶滅収容所で、生きる価値を奪われ意味なく殺戮されるという事態が起こりました。人間を無用のものとするような言語道断の国家犯罪がなぜ起こったのか、どのようにして起こったのか。こうした問いが戦後のアーレントの思想の出発点でした。
彼女はこの「絶対の悪」と向き合い、1951年には『全体主義の起原』という大著を公刊しました。 

 アーレントは、戦後ドイツには戻らず、アメリカの大学で教えながらニューヨークで暮らしていました。1960年、あるニュースが彼女の心を揺さぶります。ナチスの官僚で、アルゼンチンに逃亡していたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関によって逮捕されたというニュースでした。
 
アイヒマンは、ヨーロッパの各国から、ドイツ東部やポーランドにある収容所へと、ユダヤ人を移送する業務を統括していた、重要人物でした。前代未聞の犯罪を担った人間を、この目で見なければならないと強く感じたアーレントは、雑誌『ニューヨーカー』の特派員として、アイヒマン裁判を傍聴します。そして、裁判レポートを発表するのです。

 裁判レポートは、一九六三年二月から三月にかけて『ニューヨーカー』に連載され、五月には本として出版されました。タイトルは、「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」というものでした。アーレントは、一人の報告者として、裁判が自分の目にはどう見えたかを語りました。しかし、彼女の見解は許されざるものとして、イスラエルやニューヨークのユダヤ人社会から、激しい非難と攻撃をうけることになりました。彼女は本を書いただけでしたが、猛烈な批判をうけ、それまで親しかったユダヤ人の友人をほとんど失いました。

 なぜそれほどの非難の嵐が起こったのか、主な論点をあげてみましょう。
問題の一つは、アーレントがユダヤ人組織のナチスへの協力にふれたことでした。アイヒマンが統括したユダヤ人移送業務において、効率的な移送のために必要な、一覧表の作成などを、ユダヤ人リーダーたちが行っていたということがありました。これはすでに他の歴史家によって指摘されていたことではありましたが、アーレントは総攻撃を浴びました。この問題は彼女の裁判レポートのテーマではまったくなく、ほんの数行しか言及されていない事柄でした。ところが、彼女の言葉は、ナチスの犯罪の共同責任をユダヤ人に負わせるものとして受け止められました。イスラエル国家では、そのユダヤ人リーダーたちが、主要なポストについていたということもありました。

 そして最大の、今でも論争が続いている論点は、「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉にありました。裁判でアーレントが見たアイヒマンは、怪物的な悪の権化ではけっしてなく、思考の欠如した官僚でした。アイヒマンは、その答弁において、紋切り型の決まり文句や官僚用語をくりかえしていました。アイヒマンの話す能力の不足は、考える能力、「誰か他の人の立場に立って考える能力」の不足、と結びついている、とアーレントは指摘しました。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った、と彼女は述べています。ナチスによって行われた巨悪な犯罪が、悪魔のような人物ではなく、思考の欠如した人間によって担われた、と彼女は考えました。しかしユダヤ人社会では、大量殺戮が凡庸なものだったというのか、ナチの犯罪を軽視し、アイヒマンを擁護するのか、といった憤激と非難の嵐が起こりました。

 アーレントにとって、人間の無用化をはかったナチスの犯罪は、ユダヤ人に対する犯罪というよりも、「人類に対する犯罪」でした。政治によって生きる価値のない人種が定められ、官僚によって行政的に大量の人々が殺戮されるという現代の悪は、アーレントにとって許されざるものであり、なぜそのようなことが起こったのか、徹底的に向き合い、考えなければならない問題でした。しかし、それは被害者たちにとっては普遍的すぎる視点であり、アーレントはユダヤ人同胞から、ユダヤ人への愛はないのか、と批判されます。論争のなかでアーレントを擁護した社会学者のダニエル・ベルさえ、「彼女が要求する普遍的な正義は、世界を判断する物差としては厳しすぎる」と述べました。

 アーレントは、「悪の陳腐さ」という言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。批判への応答のなかで、彼女は、「悪の表層性」を強調しています。悪は「根源的」ではなく、深いものでも悪魔的なものでもなく、菌のように表面にはびこりわたるからこそ、全世界を廃墟にしうるのだ、と述べています。アーレントは、20世紀に起こった現代的な悪が、表層の現象であることの恐ろしさを、述べようとしたといえるでしょう。「悪の凡庸さ」という言葉で「今世紀最大の災いを矮小化することほど、自分の気持ちからかけ離れたものはない」と、アーレントは語りました。「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。それこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。

 アーレントにとって「思考の欠如」とは、表層性しかないということでもありました。
怪物的なものでも悪魔的なものでもない、表層の悪が、人類にたいする犯罪、人間をほろぼしうるような犯罪をもたらすという、前代未聞の現代の悪のありよう。それが、彼女の導き出した結論でした。

 アーレントはそうした悪に抵抗しうる可能性として、思考すること、考えることを追究します。「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」ことを彼女は重視しました。アイヒマン論争においては、アーレント自身が、そうした、自立的な思考をつらぬきましたが、彼女の事例は、表層的になった社会のなかで自立した思考が孤立するとき、生きることはどれほど過酷で、思考はどれほど勇気を必要とするか、を表しています。こうした思考が孤立したり、攻撃されたりしないような世界のあり方を、アーレントに学びつつ、考えたいものです。